SSブログ
タダノコラム ブログトップ

第5回 頼むから静かにしてくれ [タダノコラム]

…というのがレイモンド・カーヴァーの小説にあるが、これはワシが健康診断の折に切に思ったことである。

被爆二世健康診断。
広島のことは知らないが、長崎で行われている無料の健康診断で、血圧検査、血液検査、尿検査、問診と、まあ、大まかな検査をしてくれるのだが、あとで検査結果が送られてきて、それを専用の手帳に貼って数年単位の健康チェックができる。本当にありがたいことだ。

で、血圧を測ったあとに遭遇した年配の看護師さん。
彼女は問診のための事前のチェック担当で、呼ばれたワシは喫煙歴や飲酒歴など聞かれた後、「どこか通院しているところはないですか?」と質問された。
「あ、はい。精神科と内科です」
「精神科…というのは、えっと、不眠などで…?」
「いえ、本当に精神病で通ってるんですよw」
ははは…と笑った瞬間、彼女はずずずっと三歩ほど後ずさりするように驚いたあと、こう言った。

「申し訳ありません!失礼なことをお聞きして!」

「い、いいえーw(その驚きようは何?)」
「本当に失礼しました!」
「いや、あの、気にしなくていいですよ」
「でも、本当に!」
「(あんまりこの言葉使いたくないんだけど)カミングアウトしてるから大丈夫ですよ~」
「カミングアウトなんて大変でしょうに!」
「いや、あの…(さて、どうしたもんか)」

だんだん困ってきたワシだったが、彼女も仕事である。我に返ったのか具体的な病名を聞いてきた。
で、ワシは本当は今で言うと『統合失調感情障害』とくくられるのだが、それでは障害年金に通らない病名でもあるし、また、こんな短時間で説明のできるような病状でもないので、診断書に書いてある
「躁うつ病です」
と答えた。

そしたら、彼女、まるで土下座でもしかねない調子で
「まあ!そうなんですか。こんなことを大声で聞いてしまって、本当にすみません!」
と、大声で言う。
「こんなに人が大勢いる中で!」
そこでワシはムムッ!?と反応する。なんだよ、精神病っていうのは恥ずかしい病気なのかよ。

看護師さんはまた我に返ったのか、
「病歴はどのくらい…?」と聞いてきた。
「んー、十三年か十四年くらいですかね」
「まああ!大変ですね!本当に失礼してしまって、申し訳ございません!!」
「や、え、いいえーw」
「重ね重ね失礼してしまって…」
「ははは…(^▽^;)ゞ」

この『ははは…(^▽^;)ゞ』の間、何を思っていたかというと、

失礼なのは病名を聞いたことではなく、あんたのその態度だーーーーーーーっ!! 慇懃無礼とはこういうことなのか?違うのか?
と、ぐるぐる。
逆差別…?っていうのは違うような気もするし、まあ、過剰反応って言った方が近いかもしれない。
一緒に行った友人が、
「えらい時間がかかってたね」と言うので、「やー、まいったよ」と、ことの経緯を話すと、彼女は微妙な顔をして笑って、

「仕事なんだからもっとドライにできないもんかね」

と言った。

そう!!躁なんですよ!まさにそう!!←by筒井康隆

さすが友人だ、問題点を指摘してくれてありがとう!

『もしかしてこの看護師さんって、本当は看護師じゃなくて、人のいい単なるパートのおばちゃんなのかしら?』と、途中で思ったくらい職業意識がない。
普通に看護師をしていれば、精神疾患のある人間に遭遇することは多々あると思うんだが、どうなんでしょ。
もし、これが健康診断じゃなく、相手も看護師ではなく普通のおばちゃんだったら、ワシもびっくりさせないように、『ちょっと変わったうつ病なんですよ』くらいのぼかした言い方をしたと思う。

ワシの従姉妹が看護師をしているのだが、「精神疾患のある人、最近ホンマ多くなったで~」と言っていたくらいだから全国的に結構いると思うのだ。
それなのにまるでカンカン・ランラン(初めて日本に来たパンダの名前です)みたいな珍獣扱いをされて、ワシはすっかり呆れてしまった。

まあ、『最近よく聞くうつ病なのかしら?』と思っていたら「本当に精神病」と言われ、驚いたのかもしれない。
いや、確かにワシの言い方もちょっとまずかったかもしれないが。

母は、「暴れてやれば喜んだのに」と言い(か、かーちゃん…)、
父は、「キチガイがまともに喋るんで驚いたんだろう。( ´,_ゝ`)プッ」と笑う。
(うちではキチガイは差別語ではないです)
むがーっ!!外ではちゃんとやってるわい!ヽ(#゜Д゜)ノ┌┛Σ(ノ´Д`)ノ
さらに、「看護学校出て、単科の病院に勤めているのは、他の事は本当に何も知らないぞ」と言う。
ワシは「へぇ~」と、H大付属病院のかわいい看護師さんたちを思い浮かべ、「ああいう人たちは、看護師の中ではエリートって感じの人たちだったんだな」と思った。

H大病院に入院していたころ、最近見なくなった看護師さんと売店の前で偶然会った。
ワシが「わあ、お久しぶりですね。どうしてたんですか?」と、聞いたところ、
「移動になったんですよ~」と言う。
「どこに?」と聞くと、
「救急なんです。慣れなくて大変」とにこやかにおっしゃった。
確かに大変で寝る暇もなく、さらに運ばれてくるのは内科の範囲の病気の人かもしれないし、外科かもしれない、自殺未遂の多い精神疾患の患者かもしれない。それに対応するだけの能力が求められるのだろう。その看護師さんは疲れてはいるようだったが、看護師という仕事をする誇りにあふれていた。

悩んだり、戸惑ったり、悲しく辛いこともあるかもしれない。しかし、看護師という仕事を選んだ限りは、その職業をまっとうして、冷静に対応して欲しいと思うのだ。

無職のワシが言うのも変な話なんだけどさー。しかし、精神医療ユーザーとして思うのよ。

非常に不謹慎で、精神病者を貶めてしまうことにもなるのだが、

「私は天皇の血を受け継いでいて、神との交信ができます。今も神の声が聞こえてきます。あなたのことは全部わかっているんですよ。ふふっ」

とでも言おうものならどんな対応をするのか、ちょっと見てみたかった。

しかし、ワシってば考えることが子供っぽいな。
しかも後から思いつくなんて、なんてヘタレなんだ。
nice!(0) 

第4回 優しい人たち [タダノコラム]

患者製作のメンタル系サイトを巡っていると、ときどきこういう文章に出くわす。

『私たちは繊細で傷つきやすくて、心が優しいんです。だから病気になったんです』

こ、こ、こそばゆい~っ!!

ま、はっきり申しまして違うでしょう。

つーか、自分で優しいって言うな~!後ろからケリ入れてやろうかしら?と思う。タイムセールみたいに『優しい』を安売りするな。

繊細で傷つきやすいから病気になったというのは、むしろ逆でしょう。
病気だから、外部刺激に対して繊細になって傷つきやすいというのなら、わかる。心が弱っているからね。

でも『優しい』ってどうなのさ。

そういうのは自分で言うことじゃなくて、人が判断してくれるものじゃないのか。
患者にもいろいろいて、本当に優しい人もいれば、冷たい人もいる。くだらないことばかり言うやつもいるし、悪魔的にこずるいやつだっているし、日和見主義なやつだっているぜ?もちろん、尊敬できる人も楽しい人もいるけどね。

おい、自分に酔うのはやめたまえ。患者というのは心が優しいのか?いや、あなたはそうかもしれないが、全部がそうではないでしょう。だから『私たち』とくくるのはやめてけれ。
こういう文章を見かけるたびに、ある種のナルシシズムが漂ってくる。

『精神病にかかってしまった心優しい美しい私』なのか?精神病は美しいのか?

そこでワシの頭には、ある種の文学的シチュエーションがぽわぽわぽわ~っと思い浮かぶ。それは肺病関係のサナトリウム文学だ。もしくは『智恵子抄』だ。
サナトリウム文学も『智恵子抄』も、美しいのはその愛のあり方であって、決して病気そのものが美しいわけではない。
まして、「智恵子は心が優しいんだよ」と、高村光太郎が言うことはあっても、智恵子自身が自分を「私は心が優しいの。だからこんなんなっちゃったの」とは決して言わないだろう。

弱者の振りをして強気に出るのはやめなさい。的外れだし。それに自意識過剰でみっともない。自分で自分を哀れんでも、病気が治ることはない。

病気になって患者のことがわかるようになってきて、人は優しくなっていくものだと思うし、それは理想だと思う。

あ、それから、こんなコラムを書くワシって実は優しいんじゃない?と勘違いするのもやめてね。(こういうこと書くと必ずそういうメールが来るんだよ・・・orz)


参考文献:『ロマンチックな狂気は存在するか』春日武彦

nice!(0) 

第3回 精神科における病人らしさ [タダノコラム]

江戸っ子気質の親父さんが風邪を引いたとする。
せっかちだからじっと寝てるなんてことができない。そこで女房やら娘やらに怒鳴られる。
「もう!風邪引いてるんだから病人らしく寝てなさいよ!」
「てやんでぇ、ちんたら寝てられるかっての」
「黙って寝てなさい。38度もあるのよ!」
そんな女房や娘の世話が、なんとなくこそばゆい寺内貫太郎であった・・・
いいですね~。ホームドラマですね~(* ̄▽ ̄*)

な~んてほのぼのしてる場合じゃなかった。フツーに風邪を引いた場合、こうなるが、躁うつ病で躁になってしまったときにはかなり違う。
「てやんでぇ、ちんたら寝てられるかっての。おれは病気じゃねえよ」
「ね、お父さん、病気じゃなかったらお医者さまに証明してもらいましょうよ」
「うん、あたしもそれがいいと思う。お医者さまが言ってくれたら安心だもんね」
と丸め込まれ(言葉が悪い)、ハイ、強制入院~。
うつまっさかりのときには本人もかなり苦しいのでそんなことにはなりにくい。ただ・・・
うつのときには元気な振りをしてしまうのである。
上にあげた記述は『うつ』の場合にも該当する。
さらに統合失調症の場合は、幻覚が見えていても言わない。幻聴も聞こえない振りをする。独語が激しくなると傍目にもわかるようになるが、その時点で病状はかなり進行している。

そうならないために、病人は毎日自分の体調には気を使っている。
何時に起きられたか、起きた時の気分はどうか、食べられるか、食べ過ぎてやしないか、何かやろうという気力があるかないか、午後になるとどうか、人と喋れるか、等等。生活のスイッチが切り替わるたびに自分の体調と相談している。そして、ワシのことをうっすらとしか知らない人たちからありがたいお言葉を頂くのだ。

「病気には見えないね」

はい、どうもありがとう。そうでしょうとも。

これが
「あのぅ、おばちゃんの足元に団子虫がいるんだけど、スプレーしましょうか?」
などと言うてみい。おばちゃんは「ひっ」と足元を見て、それから何もいないのを確認すると、まじまじとワシの顔を見て、引きつった笑顔で「冗談言わないで」なんて言うに違いない。冗談じゃありませんとも。

病識のあるうちは団子虫が見えるのは病気だとわかっているから言わないけれども、もし自分が病識がなかった場合、あれやこれやと訴えるはずだ。部屋にでっかいゴキブリがいて眠れないからこっちの部屋で寝るとか、こんな時間に草を刈っているのは誰だ、と真っ暗な外へ行ったりとか、きっとするだろうなあ・・・と思うのである。
ワシはかろうじて病識があるのでそれはおかしいと判断できるから、結果「病気には見えないね」と思われている。そして見えたこと、聞こえたこと、感じたことは医者の前でしか言わない。
人格荒廃が進んだり、または薬の多量摂取で一見して病人とわかる人は世間をうろついていたりしない。病気には見えない病人が家の中にいて時々外出したりしている(あ、こんな事書くと怖いって思われそう)。

言われた当初はワシも、「もー、こんなに努力しているんだからあたりまえじゃん!そんなに精神病の病人を見たいなら屋根に上がって歌でも歌えばいいんでしょ」なんてキレたりしていたが、この数ヶ月ようやく
「病人には見えないというんなら、ワシは病識がきちんとあってきちんと治そうと努力しているんだ。えらいっ!」
と、自分で自分を褒めてあげることができるようになった。

ちゃんと実生活で自立しようとするからこそ、病人には見えないように努力するのであって、閉鎖病棟などに入院したときにはカラ元気を出す必要はない。ちゃんとおとなしく日々を送ればいいだけである。そして作業療法などで生活のリズムを整えることが退院に繋がる。

実は精神科に限らずどの病気にでも共通して言えることなんだが、精神科の場合、偏見というものが付きまとってくるから、こうして声高に言わないとならないのだ。骨折なら誰だってそうだとわかるが、インナースペースでは何が起こっているかわからない。

病人らしさ、とは治ろうとする努力をしていること、とワシは捉えるが、どうでしょう?

最初にあげた寺内貫太郎も、ちゃんと治そうと努力せにゃならんよ。

nice!(0) 

第2回 あれって何なのよ。― 勝ち組・負け組 ― [タダノコラム]

いつ頃から言われ出したのか定かではないが、TVCMまたはオヤジ系雑誌、ビジネス雑誌などで『勝ち組・負け組』という言葉を聞くようになった。
オヤジ系・ビジネス系では、もちろん会社に勤めるサラリーマンが対象であり、または独立起業のエールとして使われているようである。果てはヤングな(死語)ファッション誌でも『このアイテムで君も勝ち組!』というアオリも見られる。
で、フツーが軽鬱なワシは思うのだ。(そこ!笑わない!!)

「このコピー考えたヤツ、躁病じゃねーの?」

または、

「うわ~っ!!ワシって負け組なんと違うか!?そうなんか!?」
『働かざる者食うべからず』な家庭で育ったワシは、こうみえて実はとても社会所属欲求が強い。働いていないと人間のクズになってしまったような気がするのだ。かといって働き者というわけではないが。
そのため、躁状態になると途端に仕事探しを始めてしまう。アルバイト情報誌はワシにも買える100円なので、簡単に買ってしまい、アルバイトコーナーではなく、正社員のページを真剣に見て、仕事内容や給料などの『取らぬ狸の皮算用』をしてしまうのだ。
そんなワシのように、社会所属欲求が強いくせに、それが果たされていない状況の者には、『勝ち組・負け組』というフレーズはイバラのムチのように聞こえるつらーい言葉である。
こういうふうに脳にぐさっと来る言葉というのは、やはり本屋に氾濫しているようだ。
最近見つけたのが、2時に起きればなんでもできる、というような意味の本で(実は手にも取らなかった)、「睡眠障害の身にもなってみろ!ケッ!」と思いましたね。「それともあんた、躁病なんとちゃうか?」そう思いながら、少女漫画雑誌を買って帰ったのだが、後味わる~い気持ちでした。
躁状態で興奮し、ヤル気満々のオヤジが、夜中に家族を集めて明け方まで説教をしている様子を想像してしまうのである。
奥さんは説教を止めようとしてオヤジに殴られ、大学生の息子は呆れた表情でオヤジの説教を聴いている。
そんなしらけた雰囲気にますます怒りが高じ、

「おまえたちには何もヤル気がないのか!?いいか、人生というものはだな。勝ち負けで決まるんだ。人間の価値とはそういうもんだっ!!」

と、ツバを飛ばしながら説教をするオヤジ…(実際、加藤忠史先生の著書『躁うつ病とつきあう』に、症例のひとつとして出ている)。

このごろの世間様というのは、やたら元気になろうとしているような雰囲気がある。
ワシには「やれ!何かやれ!行動を起こせ!」と、牛のようにお尻を叩かれているように感じる。ドリンク剤のCM、サラリーマンが奮闘する漫画・ドラマ。それはうまくいっていれば素晴らしいことなのだが、躁うつ病を持ち、いつ躁転するか不安に思っているワシには、
「あああ~、そんなに頑張るとあとでど~んと…」
と、余計な心配をしてしまう。もちろん、主人公たちは落ち込むこともあるが、不死鳥のように蘇り、再び躁病のように熱心に働き出すのだ。
こういうふうに、ワシのような状況にあるものにとっては、とても居心地が悪い最近の世間様である。

もうちっと『ぼちぼち』できませんかね?

何が正しい生き方で、何が正しい認識なのか、それは多様化という一言では片付けられない、ホント~に様々な生き方・価値観というのはあるのだ。
ワシにしてみれば、こうして自分のサイトを持ち、書き込んでいるだけでも御の字なのである。

nice!(0) 

第1回 あれって何なのよ -医者の妙な慰め方 [タダノコラム]

えぐえぐ泣いているワシの前で、大学病院の担当医は言った。

「大丈夫ですよ。あのゲーテだってうつ病だったんですから」
即座に反応するワシ。

「だけん・なん・て・やー!」
(複合語。意味:「だから何だって言うのよ!」使用状況:半分キレかけているときに発せられる。嘲笑・脅しにも使われる)

これは『うつ病』と診断された時のエピソードである。しかし、子供のような、しゃっくりを併発する泣き方をしているので、言い返すことができない。
それから数年後、ダンディNがおっしゃった。

「大丈夫ですよ。あの夏目漱石だって躁うつ病だったんですから」

「ダンディNよ、おま…あなたもか」と思ったが、今度は「そうですかぁ」とにこやかに答える余裕の出てきた只野である。なんとなーくわかってきたからである。
統合失調症の場合は、映画『ビューティフル・マインド』に出てきたノーベル賞受賞の数学者、ジョン・ナッシュを例えに出されるのだろうか。それとも孤高の文学者、島田清次郎を例えに出されるのだろうか。シマセイは時代的背景から『早発性痴呆』と診断され、保護室で晩年を送った悲しい文学者である。今読もうと思ったら、貯金を下ろして買う羽目になるほど高い。そんで、多分、読んでもあんまりわからないと思う。…ワシだけかもしれないが。テレビドラマ化され、本木雅弘さん大熱演で感動した。共演した筒井康隆さんは、あまりの熱演に本気でおそろしくなったそうだ。自分だって若い頃は薬でハイ&ローの生活をしていたくせに。…って演技のことですね。話が飛びました。

なぜ医者は有名人を例えに出して慰めるのか。医者には医者なりの対処の仕方があって、患者にそう言うのかもしれないが、言われた患者は
「ワシにはゲーテのような文章は書けない、だから駄目な人間だ」
「ワシには夏目漱石のような文章は書けない、だから駄目な人間だ」
うつ状態のときには、結構つらい言葉である。
で、ワシの場合、文学者ばかりを例に出されたので、えいやっとばかりに、中学生の頃に思いついていたSFファンタジーを書いてみた。
軽躁のときに一気に書き上げた。しばらく寝かせて読み返してみた。…で、ワシはタダノ躁うつ病患者以外の何者でもないということが判明したのであった。「しおしおのぱぁ~」byブースカ。
しかし、これを躁状態の時に言われたら、エライことになってしまう。「やっぱ、そうでしょ!?」と有頂天になり、出版社に送りつけること間違いなしである。そして、出版されないことに腹を立て、激高し、それを鎮めようとして花瓶の水を被るという、シマセイの二の舞、三の舞である。
でも、ワシ、ゲーテ嫌いなんすよ。中学生のときに『若きウェルテルの悩み』を読んで、「こーんな冷えじご(肝が小さい)の男なんか振られて当然だ」と思って以来、読んでいない。夏目漱石はお孫さんの『ふしゃのすけ』さんなら大好きだが、ワシには漢文・国文学の知識がないので、『吾輩は猫である』を読むだけでも注釈と首っ引きでひーひーでした。でも映画の『それから』は大好き。松田優作さんが出てるから(それだけかいっ!)。

こういう医者の慰め方について、おもしろい見解がある。
中島らもさん(らもさんもゲーテバージョンだったらしい)の『心が雨漏りする日には』の最後で対談した精神科医、芝伸太郎先生の言葉だが、医者は慢性的になった患者に対して負い目を感じてしまうのだそうだ。その言い訳として病気の中に創造性を付加価値として付け、病気にはなってしまったけれど、その代償として天才的な仕事をした人もいるじゃないか、と、医者は『自分に』言い聞かせるのだそうだ。
北でも西でも大阪でも同じように医者が言うとすれば、地域差は関係ないようだ。
あくまでも芝先生ご自身の推測だとはおっしゃっているが、なるほど、確かにそれはあるかもしれない。医者は患者を慰めているのだろうが、実は自分の心の均衡を保とうともしているのだろう。

こんなことを書いてはすごーく失礼かもしれないが、ワシは医者を神とあがめているわけではない。医者は万能でもない。医者だって人間だもの。
だから慢性的になった症状を、医者が患者の代わりに苦悩することはない。「くよくよするな」と肩を叩いて祇園の料亭にでも連れて行ってあげたいが、貧乏患者にできることは、今現在の自分の症状をうまくは言えなくても、正直に言うことだけだ。新しい薬が処方されたら、その効き方について感想を述べる。それくらいである。ワシは言えないときには紙に書いて見せる。
『うつ病』『躁うつ病』『統合失調症』の典型的な症状というのはあるかもしれないが、症状は人それぞれ千差万別ではないだろうか。医者がそのたんびに代替わり苦悩していては、患者だって困るんである。慢性的になる可能性が高かった、ということでしかないのではないだろうか。
もちろん、ブッシュな医者が診断を誤り、実は躁うつ病だった患者に抗うつ剤ばかりを処方して、躁転させてしまうことはあるだろう。診断を下すことに医者としてのプライドがあり、慢性化に関して神経質になってしまう、ということはワシにもわかる。下手に病名を告げ、悪化させた場合のリスクやらなんやらがぐるぐる頭を駆け巡る様子もわかるようになった。

しかし、有名人と個々の患者には,、大雑把な分け方の精神疾患以外に何も共通するところはない。ゲーテのうつ病とワシのうつ病は違うものだと思う(「いえ、一緒ですよ」と言われれば「はあ、そうですか」と言うしかないが)。それよりも、病気をコントロールして生活している普通の人を例に出していただきたい。…と、こそっと思う(どこがだ)只野である。いや、ワシの場合はもう結構ですが。
そして、患者側の勘違いもある。『レインマン』などに代表されるサヴァン症候群やアスペルガー症候群など、自閉症の人や精神疾患の人には何か神憑り的なパワーがあるという間違った認識。あるいは、あれば少しは(自分たちが気持ち的に)救われるので、あって欲しいという家族の切なる願い。
メンタル系の患者にはある種のファンタジーが付きまとう。若くして自死してしまった人などは、繊細なものを好む若者のアイドルにもなる(山田かまちが精神疾患だったかどうかは知らないが、漫画家の山田花子、リストカットで亡くなった南条あや等)。境界例の太宰治なんかギャグにされるほど愛されている。横光利一だってわざわざ進んでうつ病になった。正常であるということが作家にとって不利益だと勘違いしたのだ。
ワシから見れば、リーチ君の方がよほど変である。何を好き好んで…と呆れるほかはない。正常ならいいじゃないか。
そして、天才的でも創造的でもない患者は、医者の慰めにただひたすら困惑するだけとなる。ゲーテがどうかしましたか?夏目漱石なら千円札の方が好きですが。とか、普通に現実的である。そして、天才的・創造的でなければならないのか? としなくてもいい悩みをしてしまうのだ。

ちなみにアメリカでは「リンカーンもうつ病だったんですよ」と慰めるらしい。大統領にならんといかんのか?と、ワシなら思う。
またまたちなみに、坂本竜馬は『注意欠陥他動性障害(ADHD)』だったらしい、と診断されているようだが、日本の夜明けを目指さんといかんのか?と、ワシなら思う。

しつこいっすね。すみません。

nice!(0) 
タダノコラム ブログトップ